<沿革>
阿波池田〜高知間の路線は、既に1914年に徳島線として開通していた阿波池田から「徳島線」、高知線の名称で1925年に高知〜土佐山田間が開通していた南側からは「土讃南線」の仮称で、南北から建設が進められた。 北側は1931年に三縄まで開通、南側は1930年に角茂谷、1932年に大杉、1934年に豊永まで順次開通。 最大の難所である大歩危を鉄路が通ったのは1935年のことで、これで多度津〜須崎間が全通して、「陸の孤島」と呼ばれていた高知県は鉄道によって香川・徳島と結ばれた。このときに、多度津〜須崎間について線路名称を「土讃線」と改めた。 詳細な各区間の開業の時系列については「土讃線(1)」の<沿革>を参照。 1967年3月1日に多度津〜阿波池田間がCTC化された際に、阿波池田駅構内(駅舎西南西側)にCTCセンターが開設され、同年7月1日は阿波池田〜高知間もCTC化された。 <概要>
土讃線 阿波池田〜土佐山田間は全国でも有数の山岳路線。 ここは、世界有数の大断層地帯である中央構造線が走り、その造山運動によって形成された西日本の尾根と呼ばれる四国山地が行く手を阻むかの如く横たわる。 そのため、同区間67.4キロの間には総延長25,690mに及ぶ80カ所ものトンネルがある。 SL時代は現在よりさらに多くのトンネルがあって(ただし総延長は現在よりは若干短い)、乗務員や利用客は煙害に悩まされ、死者すら出た。 かつては自然災害も多く、この区間の土讃線の歴史は土砂災害との闘いの歴史であったと言っても過言ではない。 土砂災害を避けるため、あるいは土砂災害に伴って、主にトンネル掘削によってルートの変更も行われている。 以前は土砂崩壊や地滑りなどの災害の名所で「土惨線」などと呼ばれていたこともあったが、開通以来の不断の災害対策が実を結び、最近は以前に比べればかなり落ち着いている。
1964年頃に初版が出版された「国鉄史」には、山城谷トンネルの掘削に至った1945年の大規模な崩壊の様子についての記述 ![]() ![]() JR四国最高地点もこの区間に存在するが、高低差そのものはたいしたことはないものの、空気ばね車体傾斜式の2600系気動車の導入を断念させるほどに急曲線が連続する難所であり、振子式を導入しなければならなかった厳しい線形をうかがい知ることが出来る。 <列車&車両>
列車は基本的に特急列車と各駅停車のみ。 後免〜高知間は土佐くろしお鉄道の快速も乗り入れているが、土讃線内は各駅停車となる。 定期特急列車はすべて振子式の2700系で運転され、急勾配・急曲線の多いこの区間で威力を発揮している。 かつては徳島線の特急「剣山」が乗り入れていたが、現在は「南風」「しまんと」合わせて16往復の運転となっており、阿波池田〜土佐山田間では普通列車よりも特急列車の方が多い。 特急列車はこの他に、週末・多客期を中心に「四国まんなか千年ものがたり」が多度津〜大歩危間に運転されている。 普通列車は、阿波池田〜土佐山田間では全て高知運転所の1000形に統一されているが、人口希薄地帯のため近年はひっそりと削減が進み、2024年3月16日改正以降はこの区間の普通列車は全て単行ワンマンとなった。 特に大歩危〜土佐山田間は5往復にまで減らされて日中約8時間も列車の無い時間帯がある。 土佐山田〜高知間は高知の都市圏輸送区間であるため、日中毎時2〜3往復程度の普通列車が運転されている。この区間では1000形の他に、土佐くろしお鉄道のTKT9640形が乗り入れており、一部土佐山田〜高知間の区間列車にも充当されている。 |
営業キロ | 駅番号 | 駅名 | (読み) | 開業年月日 | 電略 | 標高 | ホーム形態 | 主な施設 | 備考 |
43.9 |
D22 B25 | (阿波池田) | |||||||
47.8 | D23 | 三縄 | みなわ | 1931. 9.19 | ミナ | 112 m |
対面 2面2線 | 跨 | |
52.3 | D24 | 祖谷口 | いやぐち | 1935.11.28 | イヤ | 132 m |
片面 1面1線 |
曲線ホーム 駅舎無し |
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55.1 | D25 | 阿波川口 | あわかわぐち | 1935.11.28 | ワチ | 127 m |
対面 2面2線 | 跨 | |
59.8 | D26 | 小歩危 | こぼけ | 1935.11.28 | コケ | 170 m |
対面 2面2線 | 曲線ホーム | |
65.5 | D27 | 大歩危 | おおぼけ | 1935.11.28 | オケ | 181 m |
併用 2面3線 |
曲線ホーム 留置側線有 |
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72.7 | D28 | 土佐岩原 | とさいわはら | 1935.11.28 | ハラ | 203 m |
対面 2面2線 | 跨 | 曲線ホーム |
76.7 | D29 | 豊永 | とよなが | 1934.10.28 | トナ | 212 m |
島式 1面2線 | 跨 |
曲線ホーム 昔は2面3線 旧3番線は現留置側線 |
80.4 | D30 | 大田口 | おおたぐち | 1934.10.28 | オタ | 225 m |
島式 1面2線 |
曲線ホーム 留置側線有 |
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83.2 | D31 | 土佐穴内 | とさあなない | 1934.10.28 | ナイ | 235 m |
片面 1面1線 | 駅舎無し | |
87.2 | D32 | 大杉 | おおすぎ | 1932.12.20 | オキ | 250 m |
島式 1面2線 |
曲線ホーム 留置側線有 |
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93.3 | D33 | 土佐北川 | とさきたがわ | 1960.10. 1 | キワ | 326 m |
島式 1面2線 | 橋の上にある駅 | |
95.5 | D34 | 角茂谷 | かくもだに | 1930. 6.21 | タニ | 336 m |
片面 1面1線 | 駅舎無し | |
97.6 | D35 | 繁藤 | しげとう | 1930. 6.21 | シケ | 347 m |
併用 2面3線 | 跨 | 曲線ホーム |
103.9 | D36 | 新改 | しんがい | 1947. 6. 1 | シカ | 201 m |
片面 1面1線 | スイッチバック駅 | |
111.3 | D37 | 土佐山田 | とさやまだ | 1925.12. 5 | ヤマ | 43 m |
併用 2面3線 |
み 屋跨 |
龍河洞最寄り駅 留置側線有 |
112.1 | D38 | 山田西町 | やまだにしまち | 1952. 1.28 | ヤニ | 38 m |
片面 1面1線 |
曲線ホーム 駅舎無し |
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114.1 | D39 | 土佐長岡 | とさながおか | 1952. 5. 1 | ナオ | 26 m |
片面 1面1線 | 駅舎無し | |
116.2 |
D40 GN40 | 後免 | ごめん | 1925.12. 5 | メン | 15 m |
併用 2面3線 |
み旅 EV屋跨 | 橋上駅舎 |
119.4 | D41 | 土佐大津 | とさおおつ | 1925.12. 5 | オホ | 4 m |
対面 2面2線 | 跨 | |
121.4 | D42 | 布師田 | ぬのしだ | 1952. 4.15 | ヌノ | 6 m |
片面 1面1線 |
駅舎無し 高架駅 |
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122.7 | D43 | 土佐一宮 | とさいっく | 1925.12. 5 | イツ | 2 m |
片面 2面2線 | 跨 |
側線有 高知運転所 |
124.5 | D44 | 薊野 | あぞうの | 1952. 4.15 | アソ | 2 m |
対面 2面2線 | 跨 |
曲線ホーム 駅舎無し |
126.6 |
D45 K00 | 高知 | こうち | 1924.11.15 | コチ | 2 m |
島式 2面4線 |
み旅 EV ES 自動改札 |
駅弁販売駅 高架駅 |
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土讃線の無煙化 無煙化とは、それまで日本の鉄道輸送の主役であったSL(蒸気機関車)を、ディーゼル車や電気車に置き換え、輸送改善と近代化を図ろうというモノで、電気技術や内燃機関の進歩に伴って1955年頃から本格的にスタートした。 大都市部は電化、地方はディーゼル化を基本に国家的プロジェクトとして推進され、1974年12月に北海道でSLさよなら運転を行ったのを最後に無煙化は完了し、日本国内からSLの煙は消えた。 四国は全国でも無煙化(ディーゼル化)の進展がかなり速かった地区で、1970年4月1日をもって四国島内の完全無煙化が達成されている。 ![]() 土讃線は特に琴平〜土佐山田間(約100km)にかけては急勾配と急曲線、トンネルが多く、同区間の3割以上がトンネルで占められている。 加えて線路規格も低かったために大型の機関車が入線できず、SL時代は集煙装置を付けた8620形やC58形が使用され(貨物列車にはD51形も充当)、乗客はもちろん乗務員も煙害に悩まされて、死者が出ることも少なくなかった。 特に繁藤〜新改〜土佐山田間は、14kmの間で300m以上の高低差をクリアするため、300Rの急曲線と25‰の急勾配、そして大小合わせて23ヶ所のトンネルで山肌を辿る難所中の難所で、機関士が防毒マスクを付けたり、後ろから列車を押し上げる「推進列車」を走らせたり、また気圧の関係で煤煙が逆流するのを防ぐためにトンネル出入口に幕を張ったりするといった対策が取られたが、抜本的な解決にはならなかった。 SL時代の1950年10月ダイヤ改正当時の時刻表を見ると、この時の改正で登場した土讃線の準急「南風」の上り列車は、土佐山田から繁藤(当時は「天坪」)までの13.4kmをなんと45分かけて走っており、平均時速は20km/hを割り込むほどであった。 ちなみに、現在の2000系・2700系特急は同じ区間をわずか10分で駆け登る。 (地図出典:ALPS社プロアトラス98 中国・四国・九州版) (時刻参考:JTB刊「時刻表復刻版 戦後編1」 そのため、1955年前後から全国的に始まった無煙化に際しては四国の特に土讃線はそのモデル地区とされ、当時最新鋭のDL(ディーゼル機関車)やDC(ディーゼルカー)が優先的に投入された。 1956年には電気式DLの試作機DF40(後のDF91)形が使用開始され、当時まだ客車列車だった土讃線の看板列車である準急「南風」の牽引機関車がSLからDLに置き換わった。 翌32年からはその量産型であるDF50形や、キハ55・20系といった新型ディーゼルカーが大量投入され、土讃線 多度津〜高知間は早くも1959年秋には全列車の無煙化が達成され、乗客のみならず乗務員も煙害から開放された。 旅客列車については1963年には土讃本線全線の無煙化が達成されたが、貨物列車については1969年までSLが残った。 四国内各線の無煙化
準急・急行などの優等列車については、1961年の準急「せと」気動車化をもって無煙化が達成されている |