97年6月20日更新

MyTravel Vol.4




<JR四国線取材(?)紀行> その4


土讃線 窪川〜多度津間




6月7日(土)


 この日は松山からスタートし、窪川までで止めておく予定であったが、予土線内が比較的順調にいき(というより、予土線内のどこか途中で列車の走行写真を撮る予定だったのが、列車本数が少なすぎてタイミングが悪く、撮れなかったので先に進んだ為)、窪川ではまだ日が高かった。

 そこで土讃線を少し先に進めておくことにして、15時半頃に窪川を後にした。


 実は窪川まで鉄道が到達したのは戦後のことで、昭和26年に登場した準急「南風」も当時の運転区間は高松桟橋〜須崎間であった。



 窪川から国道56号線を久礼に向かう。

 仁井田六反地影野は国道沿いにあるが、影野を過ぎると火打ヶ森山を挟むような形で国道は北に、土讃線は南に向きを変えて別れる。

 この区間、国道は七子峠、土讃線は久礼坂と呼ばれる山越え区間となる。

 土讃線の影野土佐久礼間は距離約10キロ、その間の高低差は250m弱、トンネルが長短合わせて21もある。


 久礼町は漫画「土佐の一本釣り」のふるさとである(らしい)。久礼に限らず、高知といえば鰹漁があまりに有名である。


 久礼からまた峠を越え、海沿いの駅安和
 駅のすぐ裏手が海水浴場になっていてシーズン中は海水浴客でにぎわう。

 ここから土佐新荘にかけて海岸の絶壁沿いを走り、須崎に着く。


 土讃線 多度津〜窪川間は、約200kmもの距離がありながら沿線に「市」が4つしかない。須崎もその一つで、人口は4万人程度、高知からここまでが一応通勤圏で、1時間当たり1〜2本程度の普通列車が走る。

 高知県に鉄道が通ったのは遅く、大正も末期になってからである。須崎〜日下間は高知県か初の国鉄線として大正13年に開業。須崎駅にはそれを示すプレートが掲げられている。


 多ノ郷から大阪セメントの工場が見え、駅からその工場に向かって伸びる草むした築堤がある。
 1993年限りで廃止された石灰石輸送専用貨物線の跡である。

 この多ノ郷から斗賀野にかけて石灰石専用貨物列車が運転され、全国で最後まで残ったDF50が重連で牽引していた。同機が昭和58年に引退してからはDE10形が同じく重連でその牽引に当たっていたが、1993年に廃止された。
 斗賀野駅のかつての留置側線の跡は線路が殆どはがされ草むしかけている。


 佐川は土佐藩の筆頭家老深尾氏の城下町。植物学の権威牧野富太郎博士の出身地でもある。佐川駅はかつては特急停車駅でありながらホームが1本だけの交換設備もない駅だったが、JRになってから交換設備が設けられた。

 佐川から線路は一旦西に向きを変えて西佐川を通り、オメガカーブを描くようにまた東に向きを変えて高知に向かう。この奇妙な線形は政治的圧力によるもの、、、、、ではなく、ここ西佐川から松山に向けて予土線を建設することを想定して建設されたものである。そのため、西佐川駅の構内は線路配置などにかなりゆとりがある。


 この日はこのあたりで日がかなり傾いてきたので切り上げ、高知市内で一泊した。


6月8日(日)


 この日は6時半に出発し、伊野まで戻る。

 伊野は和紙の生産で知られる町で、古い町並みが残る。


 朝倉駅はJR化後に最初に駅舎のリフレッシュに取り組んだ駅で、高知県の名産品とも言える木材をふんだんに使用した山小屋ロッジ風の駅である。

 旭も同様なのだが、今回は撮影はパス。


 高知は土讃線唯一といっても良い「都市」で、土讃線沿線の町で人口が5万人を超えているのは高知だけである。
 駅の雰囲気は松山とよく似ているが、駅前には椰子の木が立ち、南国らしさが感じられる。

 だが、駅前に電線が走っていたりして景観上どうもすっきりしない点は松山と同様で、このあたりは高松や徳島を見習ってさっさと地下に埋設して欲しいものである。


 高知県第二の都市、南国市。といっても人口は4万人余りでさほど多くはない。ここの中心駅が後免駅

 土佐山田は打ち刃物の生産で知られ、名勝・龍河洞の最寄り駅。土佐山田までが高知からの都市圏で、1時間当たり2本程度の普通列車が運転されている。



 土佐山田からは「天坪越え」と呼ばれる勾配区間で、25‰の急勾配と300Rの急曲線、そしてトンネルが連続する難所中の難所である。この勾配の途中にあるのが、スイッチバック駅の新改。ここはもともとは信号場であった。

 左図のように高知方から来た停車列車はまず駅に入り、出発するときは一旦引き上げ線に転線してから発車していく。
 高松方から来た停車列車はこの逆の手順を踏む。

 通過列車はスイッチバックに入ることなくそのままスルーで通過する。


 この区間、SL時代は煙害に悩まされ、失神する者はもちろん、死者まで出たことがある。機関士が防毒マスクを付けたり、列車の後ろに機関車を連結して押し上げる「推進列車」を走らせたりしたこともある。


 ここまで車で来るのは至難の業である。土佐山田からだと、普通車がやっとすれ違えるほどの山道を10キロ近く走った後、こんどは普通車1台やっと通れるほどの道を2〜3キロばかり走り、それを登りつめた終点(行き止まり)の所に駅がある。

 腕に自信のない人や、大きな車は止めておいた方が恐い思いをしなくてすむであろう。

 ただ、道は舗装済みなのが幸いといえば幸い。


 ちなみに新改駅の乗降客数は1日平均20人ほどで、この日も駅に行くとたまたま普通列車が到着したところだったのだが、高校生が何人か降りてきた。




土讃線の無煙化

 土讃線は特に琴平〜土佐山田間(約100km)にかけては急勾配とトンネルが多く、同区間の3割以上がトンネルで占められている。

 加えて線路規格も高くなかったため、大型の機関車が入線できず、SL(蒸気機関車)時代は集煙装置を付けたC58形D51形が使用され、乗客はもちろん乗務員も煙害に悩まされて、死者が出ることも少なくなかった。

 そのため、昭和30年前後から全国的に始まった無煙化に際しては四国はそのモデル地区とされ、特に土讃線に優先的にDL(ディーゼル機関車)・DC(ディーゼルカー)が投入された。

 昭和31年には電気式DLの試作機DF40(後のDF91)形が、翌32年からはDF50形キハ55・20系といったディーゼルカーが大量投入され、土讃線 多度津〜高知間は早くも昭和34年秋には全列車の無煙化が達成され、乗客らは煙害から開放された。
    ※ちなみに国鉄全線の無煙化が達成されたのは昭和49年
 土讃線からSLが姿を消したのは昭和39年である。




 新改の次が、JR四国最高所の繁藤。ここは標高327mで、標高20mほどの土佐山田から13キロほどでここまで登ってくるのである。

 繁藤はかつて「天坪」つまり「雨の壺」と呼ばれていたほどの多雨地帯である。

 昭和47年7月5日、折からの集中豪雨によって繁藤駅前の追廻山が崩壊、地元の消防団員らが出動して復旧に当たっていた時に2度目の大崩壊が発生、繁藤駅と駅に停車中だった列車もろともこの崩壊に飲み込まれ、列車は駅の横を流れている穴内川に転落、駅も半分以上が土砂に埋まり、合わせて60人以上が死亡した(繁藤災害)

 並行する国道脇には慰霊碑があり、列車の車窓からも見ることが出来る。


 土佐北川駅は元々交換設備のない駅だったが、昭和61年土讃線の一部ルート変更を伴う線路改良の際に移転し、元の大王信号場と統合する形で交換設備のある駅にすることになったが、駅を設けるスペースがないため、このようにトラス橋の上に駅を作ってしまった非常に珍しいケース。
 ちなみに鉄橋の脇には歩道が併設されており、川の両岸から駅にアプローチすることが出来る。

 ここから次の大杉にかけてが、先のルート変更でほぼ全面的に付け替えられた区間で、大豊トンネル(全長2,067m)大杉トンネル(2,583m)の2つのトンネルで山を貫き、川べりの地滑り地帯を走る旧線は大王信号場と共に廃止された。


 大杉駅。ここも木造の民家風の駅舎の生まれ変わっている。通常、駅員はいないが何故かキヨスクが営業している。駅名の由来は、樹齢3000年といわれる国の特別天然記念物の杉の大木から。


 豊永駅も木造の山小屋風の駅舎。高知県内はこのような木造駅舎がやたらと多く、これらを見て回るだけでも結構楽しい。

 次の土佐岩原が高知県最北端の駅で、土讃線最長の大歩危隧道(4,179m)で県境を越えて徳島県に入る。


 秘境・大歩危や祖谷峡の最寄り駅、大歩危。駅構内は山間の駅には似つかわしくないほど広く、線路有効長も長い。駅のホームには祖谷のかずら橋のミニチュアがある。

 このあたりは剣山国定公園の中の大歩危峡で、吉野川に沿った急峻な地形である。見て楽しむ分には良かろうが、土讃線も、また川を挟んで併走する国道32号線も、岩肌を削り、それでも足りないスペースはコンクリートを打ち込んで足場を作り、半ば無理矢理「道」を通している。沿線は落石覆いや防護ネットが連続し、落石警報装置なども備えられる。
 かつては災害の名所であったが、最近は各種施策が効果を現しはじめ、以前に比べれば随分大人しいモノである。


 阿波池田は徳島線との接続・乗換駅で、全列車が停車し、乗降客数も結構多く、広い構内を持つ。
 高松と高知のほぼ中間点でもある。


 次ので土讃線と徳島線が分岐。土讃線は左に弧を描いて吉野川を渡り、徳島線は右に曲がって吉野川の南岸を進む。

 金比羅さんの奥院箸蔵寺の最寄り駅、箸蔵を過ぎると徳島・香川県境の猪ノ鼻越えにさしかかる。
 25‰の急勾配と300Rの急曲線、そしてトンネルが連続し、かつては特急でも平均時速60キロ出るかでないか、普通列車なら40キロ程度、重い貨物列車は20〜30キロ程度でトロトロ登っていたところであったが、現在の2000系振子気動車はこの勾配を平均90キロ前後の速度でグイグイ登ってゆき、実に頼もしい。


 勾配の途中にあるのがスイッチバック駅の坪尻。駅の回りは本当に何もなく、鬱蒼とした山林に囲まれている
 近くには廃屋が2軒ほどあり、すぐ近くの川には小さな滝もある。あたりは時折遥か上の国道を走る車の音がするのと、ポイントが切り替わる音がする以外は静寂が支配している。


 左が坪尻駅の現在の配線であるが、停車列車は新改駅と同様な手順で発着するし、通過列車はそのままスルーで通過する。

 ちなみに転線する場合はいわば「バック」する事になるのだが、単行(1両編成)のワンマン列車の場合は運転士が前の運転席から後ろの運転席に移動して転線作業を行っているようである。


 坪尻駅はかつては右図のような配線になっており、通過列車はクロッシングポイントを通過するために減速を余儀なくされていた。

 クロッシングか廃止されて現在のような配線になったのはJRになってからのようで、86年の5月に撮影した坪尻駅の写真ではまだクロッシングである。


 ここまで車で来ることは不可能であり、列車で来るか、遥か上を走る国道に車を置いて10分以上かけて薄暗い山道を降りてくるしかない。ちなみに私はこの日、隣の讃岐財田駅に車を置いて列車で来た(^^;
 また、待合室には落書き帳が置かれており、誰でも自由に書き込める。


 サミットの猪ノ鼻隧道(全長3,845m)で県境を越え、香川県に入る。
 この猪ノ鼻峠もSL時代は難所で、私の実家のある町には次のような嘘みたいな話がある。


 SL時代、貨物列車がこの猪ノ鼻越えにさしかかったとき、車掌が尿意をもよおした。当時の貨物列車に連結されていた車掌車はトイレが無く、かといって列車の速度が遅いので阿波池田まではまだ相当時間がかかりどうにも我慢できない。
 そこで車掌は列車から飛び降りて線路脇で用を足し、それからまた走って列車を追いかけてそのまま飛び乗ったという、、、、



 真偽はともかく、このような話があるほどの難所ということであるが、当時の車両の性能などを考えれば、信憑性はかなり高い(恐らく実話であろう)。


 私の実家のある町の駅、讃岐財田は駅前に樹齢数百年、枝葉を広げた直径30m以上というタブの木があり、香川県の保存木に指定されている。


 「こんぴらさん」の最寄り駅、琴平。北欧風の優美な駅舎が特徴。

 面積わずか8平方キロ余りのこの町には1万3千人以上の町民が住んでいる。
 琴平駅の利用客も多く、乗降客数・列車本数いずれも観音寺とほぼ同等であり、本数だけ比較すれば松山や高知とも肩を並べる。

 毎年元日ともなれば臨時列車や団体列車も運転され、駅は大勢の参拝客でごった返す。

 高松〜琴平間は私鉄の高松琴平電気鉄道も走っており、競合関係にある。


 弘法大師・空海の生誕の地、善通寺
 門前町であり、かつての陸軍の町であり(今でも陸上自衛隊の駐屯地がある)、今では学生の街でもあり、多彩な顔を持つ。
 「市」でありながら立地上の事情により、かつては急行列車さえも一部が通過していた駅であったが、急行列車の無くなった現在は一部の特急が停車する。


 金蔵寺を過ぎ、右にカーブを描くと土讃線の起点、多度津





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