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駅名プレートが掲げられて周囲の柵が設置され、周辺の舗装も行われた。
この後は運行情報端末が設置されると思われるが、工事予定線表によればこの2日後にはJR側の検査を受けるので、形としてはこれでほぼ完成形であろうか?
※2024年7月29日 |
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待合所の照明が付いた。
この後、床部分にコンクリートを打ち込むのであろう。
※2024年7月22日撮影 |
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新しい駅舎、、、もとい、待合所がやっと姿を見せた。
※2024年7月17日撮影 |
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新駅舎と新しい柵の基礎部分のコンクリ打ちが行われていた。
この後、型を外して整地し、いよいよ本体の設置工事が始まる。
しかし、工事費が高騰してるのか他に理由があるのか、工事期間が延びて8月5日完成予定となっていた。
※2024年7月2/8日撮影 |
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新駅舎の基礎を設置すると思われる箇所にマーキングが入っていた。
この部分を掘り起こして型を設置し、コンクリを流し込むのであろうか。
※2024年6月3日撮影 |
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跡地の整地が概ね終わったように見える。
※2024年5月31日撮影 |
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駅舎自体の取り壊しは1週間ほどで終わった。
工事完了予定は7月26日となっている。
※2024年5月20日撮影 |
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本格的に工事が始まった。
この日は駅舎を囲む足場等の設置が行われていた。
※2024年5月13日撮影 |
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↓の予告通り、GW明けから早速解体工事が着手された。
まずは建物内の備品用度品等の搬出と、電気配線等の撤去が行われ、この日の夜には駅舎内は既にがらんどうになり電気も全て消えていた。
※2024年5月8日撮影 |
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2024年3月末になって、駅舎の建て替え(現駅舎の取り壊し)に関する告知が待合室掲出され、2024年4月以降に着手する旨明記された(左画像上側)。
※2024年3月26日撮影
さらに2024年4月末に、同年5月8日から7月にかけて建て替え工事を行い、その間利用する仮設通路についての告知がでた(同下側)。
※2024年4月23日撮影 |
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かつて主要な中間駅(主に無人駅)に設置されていた、連絡用の鉄道電話の電話ボックス。
列車遅延時やその他異常があったとき、これを使用して最寄りの管理駅と連絡を取ることが出来、一般利用客も使用可能であった。
※1986年11月2日 |
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讃岐財田は琴平以南の駅の中ではいち早く1985年にホームの嵩上げ工事が行われた。
このときに併せて構内通路移設工事も実施され、下り方に20mほど移動して、階段を廃してスロープになった。
工事中の同駅で交換する、高知行急行「土佐3号」と高松行快速7242D。
※1985年3月17日撮影 |
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駅舎横に置かれていた、「防火用水」のドラム缶。
※1985年3月撮影 |
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国鉄時代の駅名票と、移転する前の構内通路。
国鉄時代の四国では、一部の普通列車が通過する小駅をカッコ書きで表記するのが普通で、この駅名票でも黒川駅がカッコ表記となっている。
また、この当時は3番線脇の藤棚が綺麗に手入れされており、毎年5月頃に見事な花を咲かせていたが、無人化以降は手入れが行き届かずいつしか消えてしまった。
※(上)1984年5月撮影/(下)1986年5月5日撮影 |
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1982年当時の駅舎。
下側の画像右端の建物が、当時のトイレであった。
また、駅舎左の少しはみ出している部分は、宿直室及び当駅始終着列車があった当時使用されていた乗務員宿泊室と思われ、民営化後の駅舎リニューアルの際に取り壊された。
※1982年8月撮影 |
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駅舎脇に置かれていた、荷物運搬用のリヤカーなど。
国鉄時代は荷物扱いを行う大抵の有人駅に備えられていた。
※1982年3月撮影 |
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1981年当時の駅舎と駅出入口付近の様子。
※1981年9月撮影 |
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1980年に撮影した1番ホームの駅名票。
こちらは黒川駅が通常表記となっている。
画像左に立っている電柱に取り付けられた「上1出」を書かれた黒い箱状の器具は、上り1番線の出発合図ブザーのボタン。
主に客車列車の発車時に、駅員や車掌が操作するボタンで、押すと「ブーーー」というブザー音とともに、出発信号機の下に取り付けられた白色灯が点灯する仕組みになっている。
もちろん全ての駅にあったわけではなく、駅員配置駅の中でも一部の駅のみに設置されていた装置であった。
当駅は1972年までは当駅始終着の普通列車が存在するほどの駅であったため、その名残と思われる。
※1980年撮影 |
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1980年当時の讃岐財田駅構内。
※1980年11月撮影 |