50系 一般形客車
国鉄分割民営化の落とし子
悲運の「レッドトレイン」


50系客車全盛時代

高松駅で「お尻」を揃えて並んだ、3本の50系客車列車
当時四国には100両を超える50系が配置され、
四国内で「客車列車」と言えば全て50系ばかりだった
1985年6月16日


 多度津駅を発車する50系客車8両編成の高松行区間快速 122列車+222列車
予讃本線 多度津駅
1986年3月24日



 旧来、普通列車に使用されていた客車は、1950年代以前、車両によっては戦前に製造されたモノもあり、老朽化・陳腐化が著しく、加えて自動扉が装備されないなど、安全上も問題があったことから、これら旧型客車を置き換える目的で製造された。
 一族合わせて総勢1,269両が量産されて全国各地で活躍した。


 まずは、1977年に本州・四国・九州向けとしてオハフ50・オハ50形が、翌78年に北海道向けとしてオハフ51・オハ51形が登場した。

 全長20m、客室内は地方都市圏での通勤輸送を考慮してセミクロスシートで、出入口扉はステンレス製で幅1mの自動ドア。側窓は北海道用は1段上昇式、それ以外は上段下降・下段上昇式のユニットサッシとされた。
 屋根は集中冷房装置の搭載が可能な設計となっており、側面には巻き取り式行先表示幕の取付準備工事が施された。

 1982年までの間に合計953両が量産されて全国各地で活躍、鮮やかなワインレッド(赤2号=交流電気機関車および国鉄特急色の赤と同じ色)の車体から「レッドトレイン」と呼ばれて、地方都市部やローカル線での客車列車のイメージを変えた。


 これら旅客車とは別に、古い郵便荷物客車を置き換える目的で、マニ50/スユニ50という荷物車が製作された。
 マニ50は旅客車と同じ台車を履いているが、スユニ50は廃車となった旧型客車のTR47形台車を流用している。車体の色はいずれもブルーである。

 マニ50形が236両、スユニ50形が80両製作されて、全国で活躍したが、1986年の鉄道郵便荷物輸送廃止により、全車運用を離脱した。

 その後は、それまで旧型客車の改造車が使用されていた救援車と置き換えられ、救援車代用車として使用されているが、これも現在では少なくなってきており、JR東海・四国・九州の各社からは既に姿を消している。


 全国的にも、最後まで残っていた津軽海峡線の快速「海峡」と、JR九州・筑豊本線のレッドトレインは、いずれも2001年度をもって全て姿を消し、50系客車による定期旅客列車は既に消滅している。

 新時代を拓く寵児として急速に勢力を拡大し、そして時代の波に呑まれるように急速に消えていった、悲運の客車である。



〜四国の50系〜

 四国に於いては、1978年に松山気動車区(当時)に23両配置されたのが最初で、同年10月のダイヤ改正から松山地区で運転を開始したが、当時の運用区間は愛媛県内のみであった。
 当時はDF50形もまだ旅客列車牽引に充当されており、松山地区でもDF50形が50系客車を牽引していたが、定期列車としてDF50が50系を牽引した例はこれだけである。

 その後しばらくは投入がほとんど無く、1981年1月に8両が高徳本線用として高松に配置された程度であった。
 なお、1981年には高松と高知にスユニ50形が各1両新製配置となっている。

、四国内の旅客列車牽引機が全てDE10形に変わった後の1982年から本格的に導入が始まり、1982年3月に20両が高松に新製投入されて、予讃線と土讃線の客車列車10本が50系化された。
 さらに同年以降は、九州や北陸、東北などの各地から多数の転入があり、1985年3月のダイヤ改正をもって、四国内の定期客車列車は全列車が50系に統一された。

 1985年当時は高松・松山・高知の各車両基地に合計121両(オハフ50形66両+オハ50形50両+マニ50形3両+スユニ50形2両:内四国新製配置車はオハフ50形31両+オハ50形20両+スユニ50形2両=53両)が配置されて、予土線と鳴門線と内子線を除く四国内全線で活躍し、特に朝のラッシュ時は6〜8両編成の50系客車列車が満員の乗客を乗せて次々に高松駅に到着し、この頃が最盛期であった。
 荷物車についても遠く汐留までの運用を持っていた。

 また、臨時列車ながらも「はつはる号」や「サヨナラDF50土佐路号」などの急行列車として使用されたこともあった。

 国鉄分割民営化に際して、このうちの5両がジョイフルトレイン「アイランドエクスプレス」に改造された。


 しかし、その後は列車の短編成化によるフリークエンシー(運転頻度)のアップや、電化などによる新車の投入によって急速に勢力を縮小し、1989〜90年頃には約100両もの製造後10年にも満たない50系客車が、余剰車として四国内各地に放置されるという惨状を呈した。
 これら余剰車は、ごく一部が第3セクターなどに譲渡された以外はほぼ全てが廃車・解体された。

 JR四国管内の50系による定期列車は、最後に残った高徳線の1往復が1992年4月に気動車化されて消滅し、わずか14年の四国での活躍にピリオドを打った。
 四国配置車でもっとも短命だったものは、新製からわずか8年での廃車であった。


〜四国の50系一般型客車の小ネタ〜
短かった全盛時代
電気暖房対応車
簡易ビュッフェ車「オアシス」



予讃本線 高松駅
1981年1月

 四国に新製回着したばかりの50系客車。

 これは、当時の高徳本線323レ〜322レ置き換え用に高松配置となった8両。

予讃本線 高松駅
1982年8月4日

 特に通勤時間帯の輸送力列車に投入されて活躍した50系。
 高松に到着して大勢の通勤客を吐き出した、50系8連の快速122レ+222レ。

 従来は旧型客車10両で輸送していた列車だが、収容力の大きい50系化されたことで、編成短縮が可能となった。

予讃本線 高松駅
1982年9月

 旧高松駅の連絡船桟橋横にあった荷扱いホームに停車中の、当時汐留区配置のマニ50形。

土讃本線 琴平駅
1983年9月25日

 「サヨナラDF50土佐路号」として、DF50重連に牽引されて高知へ向かう50系5連。
 なお、列車種別は急行列車であり、しっかりと「急行」のサボがかかっていた

土讃本線 讃岐財田駅
1985年3月

 この年の3月改正で旧型客車から置き換えられた、高松発高知行223レ。
 最後尾のオハフ50形は現在小松島に保存されている272号車で、転入後もしばらくは九州(鳥栖客車区)時代の赤く塗られた貫通幌枠で運用されていた。

徳島気動車区
1985年5月26日

 徳島気動車区(当時)で、本来の住人であるキハ20系などを押しのけて昼寝中の50系客車群。

土讃本線 琴平駅
1985年6月16日

 汐留区のマニ50形を連結した、高松発高知行の225レ。
 高松〜多度津間は川之江行の125レと併結で8両編成であった。

土讃本線 阿波池田駅
1985年10月16日

 汐留区のマニ50を従えて阿波池田を発車する、50系4連の高知発高松行226レ。

 一見すると←左の225レと同じ編成であるが、225レとは逆に下り方の最後尾にマニを連結している。

土讃本線 黒川〜讃岐財田間
1986年1月1日

 紫煙を噴き上げるDE10に牽引されて勾配を登る土讃本線223レ。
 通常3両編成の列車だが、正月の増結措置で6両となっていた。

予讃本線 多度津駅
1986年1月1日

 金刀比羅宮初詣臨時列車「はつはる号」として運用中の50系。

  琴平駅で折り返し待機中の「はつはる」のサボ。

 
 なお、サボはかかっていないが、列車種別は「急行列車」である。
 
 (出典:交通公社時刻表1986年1月号)

予讃本線 多度津駅
1986年3月24日

 四国内における50系客車使用定期列車の最長編成は8両であった。
 1982年から1987年までの間に、高松〜多度津間に上下合わせて4本が存在し、その内の3本は予讃線列車と土讃線列車の併結列車だった。
 その中でもこの予讃本線125レ+土讃本線225レの併結列車は、唯一マニ50形が連結されてていた列車であった(最後尾に連結)。

予讃本線 松山駅
1987年4月9日

 登場直後のアイランドExp専用塗装のDE10形に牽引される50系(予讃本線1122レ)。



〜四国の50系一般型客車の小ネタ〜


短かった全盛時代

222レ(手前側4両)+122レ(奥側4両)
予讃本線 高松駅
1982年8月4日

1232レ
予讃本線 多度津駅
1986年3月24日

 四国においては既述の通り、1985年3月改正で島内全定期客車列車が50系化されて、四国の50系は全盛期を迎えた。

 この当時は朝8時過ぎから1時間の間に、予讃本線を4本の50系客車列車が雁行して上ってきていた。
 これに高徳本線322レが加わり、合わせて5本の客車列車が運転され、通勤通学輸送に活躍していた。

 
 (国鉄四国時刻表 1986年3月3日ダイヤ改正号より)

 編成は120レが8両、222レ+122レも8両、1232レが5両、124レと322レがいずれも6両で、合わせて当時四国に配置されていた50系の約3割に当たる33両が、朝の1時間の間に高松に集結し、平日には合わせて約3,000人の通勤通学客を運んでいた。

 しかし、このうち予讃線側の4本は1987年10月ダイヤ改正で全て電車化され、四国における50系客車の全盛時代はわずか2年半で終わった。


124レ
予讃本線 丸亀駅
1985年10月

322レ
予讃本線 高松駅
1983年6月


電気暖房対応車

 客車の暖房装置にはいくつかの種類があり、黎明期のストーブや湯たんぽといった物から、牽引する蒸気機関車の動力源である蒸気を使用した蒸気暖房へ移行した。
 これは機関車で使用している蒸気の一部をホースで客車に供給して暖房に使用するものである。

 その後の動力近代化でディーゼル機関車や電気機関車が登場した際には、客車に暖房用の蒸気を供給するためのボイラーを機関車に搭載していた。
 しかし、ボイラーは夏期は使用しないので無用の長物であるばかりでなく、ボイラーを扱うための資格を持った乗務員の添乗を必要とするなど、保守や維持にコストと手間がかかるため、特に電気機関車においては架線から取り入れた電気を客車の暖房に使用する電気暖房が新たに開発された。

 客車側でも電気暖房に対応した車両もあり、国鉄の一般型客車の場合は2000番台で番号区分していた。


 さて前置きは以上にして本題である

 上記の通り四国に配置された50系客車は最盛期で121両に達したが、このうち新製投入された53両については、スユニ50形2両のみが電気暖房対応で、それ以外は全て非対応であった。
 当時四国内は全線非電化で電気機関車が存在しないのであるから当然である。ちなみに、スユニ50形(とマニ50形)は全車両が電気暖房対応車となっている。

 その後、1985年3月改正での四国内全客車列車50系化に向けて他地区から続々と四国へ転入してきたが、当然ながらその中には電気暖房に対応した車両も散見された。

 電気暖房は専用の高圧ジャンパ栓を使用することから、対応車両の妻面にはそのジャンパ栓(とジャンパ栓納め、及びジャンパ栓受け)が設けられており、ここを見れば車両ナンバーが判別しなくても、最低でも電気暖房対応車か否かの区別が出来た。


徳島気動車区(当時)
1985年5月26日

 左は、当時の徳島気動車区で並んだ50系。

 左のオハとオハフが電気暖房対応車、右端のオハフが非対応車である。
 違いをよく見比べていただきたい。

 同じ電気暖房対応車でも、マニ50形(青い車体の方)の場合はさらに三相ジャンパ栓が装備される分、連結器周りが賑やかである。


 なお、後年の「アイランドエクスプレス四国」改造に際しては、サービス電源供給用回路としてこの電気暖房回路が活用されることになったことから、電気暖房装備の2000番台車が改造種車に選定された。
 そのため、四国生え抜き車が短命で終わったのに対して、他区所からの転入車の方が生き長らえたのは、なんとも皮肉な話である。


簡易ビュッフェ車「オアシス」



 国鉄末期に、オハフ50−180のお手軽改造で登場した、簡易ビュッフェ車「オアシス」。
 帰宅時間帯の普通列車に増結する形で、今で言うところの走るビアガーデン列車の嚆矢ともいえるもの。
 メニューはドリンク類が中心で、ビールの他にソフトドリンクもあった。

 内外装共に手作り感に溢れるもので、国鉄分割民営化を控えてやれることはなんでもやろうという気概が感じられた。


 高松17:44発の琴平行普通列車(1235レ)の最後部に連結されて、終着の琴平まで営業を行っていた。
 当時の乗車記録メモ→

 当日は折り返し琴平発多度津行1236レに、さらに翌朝120レの多度津からの増結にも連結されたが、いずれもビュッフェは非営業であった。


 なお営業運転開始直前に、多数のヨ8000形を連ねてその車内で宿泊する企画列車「バンガロー列車」が運転された際には、「食堂」として使用された模様である。

7枚全て
予讃本線 高松駅
1986年8月28日





形式オハフ50形オハ50形マニ50形スユニ50形
最大寸法20,000 mm
2,893 mm2,883 mm2,885 mm
3,895 mm3,865 mm
重量29.5〜30.8 t27.8〜28.1 t28.6〜29.7 t31.5 t
車体普通鋼
ブレーキ方式CL
ブレーキ装置踏面両抱
台車形式TR230TR47B
許容最高速度95km/h
車体構造・客室2扉セミクロスシート
乗車定員(人)92 (座席:67)112 (座席:80)
積載重量(t)荷物:13 荷物:4
郵便:4

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