1960年前後は四国地区は無煙化のモデル地区として大量のディーゼルカーが投入され、それによる気動車準急・急行が続々と誕生したという経緯もあって、四国は気動車急行王国として知られ、1960〜70年代の全国的な特急列車網の整備を横目に各路線で気動車による急行列車が頻繁運転され、現在の特急並みのフリークエントサービスを提供していた。 1970年頃は、特急車輌のような「ヒゲ」を付け、ミュージックアラームを装備したキハ58系が予讃・土讃線急行列車の先頭に立つことも多く、この頃が急行列車全盛期であった。 1972年3月改正での特急登場後も四国島内の都市間輸送の主役は急行であることに変わりはなく、この体制が最後の統一国鉄ダイヤ改正である1986年11月改正まで維持された。 これら島内を縦横無尽に走っていた急行列車には全てヘッドマークが掲げられ、特急列車をしのぐ活躍をしていたが、列車名・運転系統としては1960年代末までにはこの下に挙げる7列車に統合され、この体制が長く続いていた。 予讃・土讃両線の急行列車が乗り入れる、予讃本線 高松〜多度津間は、最盛期には1日に26往復もの急行列車が行き交う、全国でも有数の急行列車(それも、全列車気動車)密集区間であった。 通常、ヘッドマークは駅に常設しており、その付け替えはホームから係員が行っていた。 従って、必然的にヘッドマークは「当該ヘッドマークを取り付けた(始発)駅のホームのある側」に、取り付けられることになる。 事実、私が高松駅で撮影した下り急行列車の画像は、ほぼ例外なくホームの位置とヘッドマークの位置が一致している(上り到着列車の場合は違っている場合もある)。 結果的に、見た目では列車の正面に向かって右だったり左だったりするが、「同じ列車で見れば、例えば先頭側が向かって左なら、最後尾は向かって右側に付いている」のが普通であった。 しかしこれも一部例外があり、例えば宇和島発高松行きの急行「うわじま」の場合、宇和島始発の編成(1〜4号車)に松山で増結車(5〜6号車)を繋いだ場合、1号車と6号車では位置が違ってくる場合があった。 また、キユニ28形の場合は車両の正面に向かって左側にしかHM取付用のフックがないため、この原則は当てはまらない。 ヘッドマークには、固定式と切替式があり、切替式のモノは中央で縦に2分割されていて、列車名を切り替えることができるようになっていた。 元来は固定式だったが、重いヘッドマークを上げ下ろししたり、次に使うヘッドマークを予め列車にを積んでおくか駅に常備しておく必要があるなど、作業性や効率に難点があったため、省力化の観点から1982〜83年頃から切替式が増え始め、国鉄末期頃までには全て切替式に変わっていた。 当方所蔵の画像では、1982年8月に初めて切替式のヘッドマークの存在が確認されているが、本格的に増え始めたのは1984年頃からとなっている。
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ちなみに、基本4両編成の状態における、列車ダイヤ作成上の速度種別は「通気B5」 ![]() これはキハ80系特急すら上回り、後年のJR四国のキハ65+キハ58でも「C5」であったので、かなり機関を酷使する運用であったことは想像に難くない。 |
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急行「せと」 予讃本線 高松〜宇和島 3往復 |
1950年10月に準急として高松桟橋〜松山間に登場。同じ改正で登場した東京〜宇野間急行「瀬戸」に接続する準急列車。当時はC58形蒸気機関車牽引の客車列車であった。 当時愛称名が付与されていた準急列車は、全国でもこの「せと」と、土讃線の「南風」だけであった。 翌1951年4月11日に運転区間が宇和島まで延長された。 1961年4月15日に気動車化された。 1965年10月改正で急行列車に格上げされると共に、「四国」を統合して2往復体制となった。 1966年10月にはさらに、松山〜宇和島間が延長された「道後」を統合して合計3往復となった。 1968年10月改正で「うわじま」に統合されて姿を消した。 最速列車の所要時間は、高松〜松山間2時間58分、松山〜宇和島間2時間、高松〜宇和島間5時間5分。 停車駅は、高松−多度津−観音寺−伊予三島−新居浜−伊予西条−今治−松山−伊予大洲−八幡浜−卯之町−宇和島。 |
準急「やしま」 予讃本線 高松〜松山 1往復 |
1958年11月に四国初の気動車準急として1往復が登場。当時は普通車にキハ55系、グリーン車には半室構造のキロハ18を使用していた。 1959年9月に、松山〜八幡浜間が延長された。 1960年2月に「いよ」化されて姿を消した。 |
急行「四国」 予讃本線 高松〜宇和島 1往復 |
1961年4月改正で四国初の急行列車として高松〜宇和島間に1往復が登場。 1965年10月に「せと」に統合されて姿を消した。 最速列車の高松〜宇和島間の所要時間は4時間56分(1964年10月改正当時)。 停車駅は、高松−多度津−観音寺−伊予三島−新居浜−伊予西条−今治−松山−伊予大洲−八幡浜−卯之町−宇和島。 |
急行「道後」 予讃本線 高松〜松山 1往復 |
1961年10月、予讃本線第2の急行列車として、高松〜松山間に1往復が登場。 1966年10月改正で松山〜宇和島間延長され、「せと」に統合されて姿を消した。 最速列車の高松〜松山間の所要時間は2時間55分(1964年10月改正当時)。 停車駅は、高松−多度津−観音寺−新居浜−伊予西条−今治−松山。 |
準急「えひめ」 予讃本線 高松〜松山 1往復 |
1963年10月に準急として登場。 1965年10月改正で「いよ」に統合されて早くも姿を消した。 |
急行「南風」 土讃本線 高松〜窪川 3往復 |
1950年10月に高松桟橋〜須崎間(高知〜須崎間は普通列車)にC58形蒸気機関車牽引の客車による準急列車として1往復が登場。 当時は高松〜多度津間はまだ単線であったため、同区間は予讃本線準急「せと」と併結運転であった。 1956年12月からは、牽引機関車がディーゼル(DF40形(後のDF91形)電気式ディーゼル機関車)化されて無煙化を達成。 翌1957年にはDF91形からDF50形に牽引機関車が変更となっている。 1958年11月1日のダイヤ改正で、運転区間が窪川まで延長された。 1959年9月15日、高松駅と高松桟橋駅の統合により、運転区間は高松〜窪川間となる。 1961年10月のダイヤ改正で準急「せと」「南風」が分離されて各々単独運転となり、「せと」は気動車化されたものの、「南風」は客車のままとされた。 1962年4月12日改正で、車輌運用上の関係から上り列車のみが気動車化された。 気動車化と共に運転区間も再度窪川まで延長された。 1963年2月1日に、下り列車も気動車化され、四国内の準急・急行全列車の気動車化が完了した。 1965年10月改正で急行列車に格上げされ、「黒潮」を統合して2往復となった。 1966年10月改正ではさらに「浦戸」も「南風」に統合されて3往復体制となり、この頃が急行列車時代の最盛期であった。 当時の最速列車は、「足摺」「土佐」がやっと3時間を切る程度で結んでいた高松〜高知間を、後年の特急並みの2時間39分で走る列車もあり、文字通り土讃本線の看板列車だった。 1968年10月改正では「あしずり」に統合されて四国では一旦姿を消すが、愛称名としては九州南部を走るローカル急行列車として生き延びた。 サラリーマンで言えば一時出向みたいなモノである(^^; その後1972年3月改正で特急列車の愛称名としてカムバックを果たし、現在に至る。 |
急行「浦戸」 土讃本線 高松〜高知 1往復 |
1961年10月、土讃線初の急行列車として高松〜高知間に1往復が登場。 1966年10月改正では「南風」に統合されて姿を消した。 登場/廃止時期、使用車両、そして宇野で接続する本州側の列車のいずれも、予讃線急行「道後」と同じである。 最速列車の高松〜高知間の所要時間は2時間42分(1964年10月改正当時)。 停車駅は、高松−多度津−琴平−阿波池田−土佐山田−高知。 |
急行「黒潮」 土讃本線 高松〜窪川 1往復 |
1961年10月改正で「浦戸」とともに急行列車として高松〜須崎(窪川)間に1往復が登場。 1965年10月改正では「南風」に統合されて早くも姿を消した。 尚この時期、土讃本線の他にも紀伊半島の紀勢本線に急行「くろしお」が、また房総半島の外房線にも準急「黒潮」が走っており、違う場所で同じ愛称名の列車が3つも存在していたことで結構有名であった。 |
準急「南国」 土讃本線 高松〜高知 2往復 |
1964年10月に高松〜高知間の準急列車として登場。2往復のうちの1往復は季節列車だった。 1965年10月では準急「土佐」「足摺」に改称され、わずか1年で姿を消してしまった。 |
急行「いしづち」 予讃・土讃・徳島本線 松山〜小松島港 1往復 |
1963年2月に登場。松山から予讃・土讃・徳島線を経由して徳島へ向かい、小松島港まで乗り入れて和歌山航路に連絡していた異色の準急列車。 1964年10月改正では下りは多度津〜松山間は準急「いよ1号」に、上りは松山〜多度津間準急「うわじま1号」に、そして阿波池田〜小松島港間は上下とも準急「阿佐2号」との併結となる。 1965年10月からは、下りは小松島港〜阿波池田間準急「阿佐2号」に、阿波池田〜松山間は準急「予土」に、そして多度津〜松山間は準急「うわじま5号」との併結。上りは松山〜多度津間準急「うわじま1号」阿波池田〜小松島港間準急「阿佐3号」との併結となる。 即ち、この当時は準急「うわじま5号/いしづち/予土」の3階建て併結列車が多度津〜松山間に存在したわけである。 また、下り列車は小松島港〜松山間の全区間が他の列車との併結となるなど、相変わらず異色の準急列車であった。 1966年に急行格上げ。 1968年10月のダイヤ改正での四国内の優等列車網整理に伴い、廃止となった。 |
準急「眉山」 高徳本線 高松〜徳島間 1往復 |
1961年10月、「阿波」のうち宇野で急行「瀬戸」に接続する1往復を「眉山」に改称して登場。 1962年7月には「むろと」登場に伴う愛称名整理により、たった9ヶ月で姿を消した。 |
準急「なると」 高徳本線 高松〜徳島間 1往復 |
1961年10月、「阿波」のうち宇野で電車特急「富士」に接続する1往復を「なると」に改称して登場。 1962年7月には「むろと」登場に伴う愛称名整理により、たった9ヶ月で姿を消してしまった。 |
急行「阿佐」 小松島線・徳島・土讃本線 小松島港〜高知 3往復 |
1962年4月、小松島航路に連絡する準急列車として2往復が登場した。 後の高知行特急「剣山」のルーツとも言える列車で、今は亡き小松島線の小松島港まで乗り入れ、和歌山航路に連絡して小松島港〜高知間を結んでいた。 1964年10月改正では上下とも1号は全区間単独運転、2号は下りは阿波池田〜高知間は土佐に、上りは同区間準急「南風」との併結となる。 1965年には3往復に増発。阿波池田〜高知間は全列車が併結運転となり、併結相手も「南風」「足摺」「土佐」とバラエティ豊か。なお、このとき既に「南風」は急行列車となっていたため、全国でも珍しい急行と準急の併結列車が見られた。 1966年に急行に格上げされた。 1967年10月改正で3往復に増発。 1968年10月改正で「よしの川」に統合されて姿を消した。 |
急行「予土」 徳島・土讃本線 徳島〜高知間 1往復 |
1965年6月登場。 松山から多度津を経由して高知をまでを結んでいた準急列車。随分大回りだが、当時はまだ予土線が全通していなかったためこのルート以外になかったのである。 併結相手は、下りは高知〜阿波池田間が急行「第3南風」阿波池田〜松山間準急「いしづち」多度津〜松山間準急「うわじま5号」、上りは松山〜多度津間準急「いよ3号」多度津〜高知間準急「足摺2号」となる。 なお、急行「第3南風」は高知〜阿波池田間準急「阿佐2号」を、準急「足摺2号」は阿波池田〜土佐佐賀間準急「よしの川」も併結し、予讃線と同様の3階建て併結列車が存在したが、いずれもこの準急「予土」が絡んできているという共通点があるほか、急行列車と準急列車の併結という点でも珍しかった。 1966年に急行格上げ。 1968年10月改正での愛称名統合の折り、松山〜高知間の道路整備に伴う国鉄バス「なんごく号」の増発とスピードアップ、それに車両運用上の不都合もあって、わずか3年ほどで廃止されてしまった。 |