キハ65形 急行形気動車

四国内気動車急行列車冷房化推進の立役者


土讃線 黒川〜讃岐財田間
2005年4月



 1965年前後頃からキハ58系気動車急行列車編成の冷房化が始まったが、エンジンを2台搭載するキハ58形等は冷房用発電機を搭載するスペースが無いため、エンジン1台搭載のキハ28形に、自車を含めた3両に冷房用電源を供給することの出来る発電機を搭載し、キハ58形に電力を供給することとなった。
 しかし、勾配線区を走る気動車急行を冷房化する際、電源確保のためにキハ28形を組み込むと編成全体の出力が下がり、速度が低下するという問題があり、強力形のエンジンを搭載した「電源車」が必要となった。

 そこで、キハ181系と同じDML30HSD(500ps)を搭載した勾配線区向け気動車として1969年に登場したのが、キハ65形である。


 エンジン・台車・基礎ブレーキ装置は基本的にキハ181系と同じで、液体変速機も同系統のものであるが、従来型気動車との併結を前提としたため、制御方式や制御装置は従来車に倣ったものとし、変直切替も手動変速式とした。
 冷房電源発電用エンジンはキハ28形に搭載されたものと同じで、ダイハツ製4VK型発電セット。

 客室は向かい合わせシートの間隔(シートピッチ)が拡大されたほかユニットサッシを採用するなど、サービスの改善が図られたが、車重の増加を防ぐためとキハ58形と同じ定員を確保するため、トイレ・洗面所は省略された。

 1972年までの間に、暖地向け0番台車が86両、寒地向け500番台車が18両の合わせて104両が製造され、西日本各地と甲信越の勾配路線を中心に運用された。

 国鉄末期以降は急行列車の削減により定期運用を外れる車両も発生したが、足回りの性能が良いため、各地で特急用車両やイベント用車両などに改造された。



<四国のキハ65形>

 1968年度第4次債務で製造された第1次車の10両全車が高松に新製配置となった(内3両は後年鳥取に転出)ほか、翌70年には24〜50号車の27両がまとめて高松に配置されるなど四国へ重点的に投入され、最盛期には暖地向けとして製造された86両のうちの半数にあたる42両が高松運転所に集中配置され、予讃線での高速運転や土讃線及び予讃線末端の勾配区間で遺憾なく威力を発揮したほか、四国内急行列車の冷房化推進に大きく貢献し、四国においては1972年度をもって定期急行列車の完全冷房化を達成した。

 四国のキハ65形は基本的に、従来よりキハ58系列車としては運転曲線が高めに設定されていた予讃・土讃本線系統で主に運用され、そこから捻出したキハ28形を高徳・徳島本線に回すことで、急行列車の冷房化が進捗した。
 当時四国のキハ58/65系急行列車の速度種別は、キハ82系特急形気動車を上回る「通気B5」に設定され、単線区間の気動車急行列車としてはかなり高めの設定となっていた。

 シートピッチがキハ58よりも広く、そのうえエアサス装備で必ず冷房が付いていることから、1980年10月のダイヤ改正で四国急行列車のグリーン車が全て普通車指定席車に格下げになるまで、2号車の普通車指定席車として使用された。


 1986年11月改正で予讃本線特急「しおかぜ」が大増発されると、高松〜松山間の急行は「いよ」1往復だけとなったため、余剰となったキハ65形は高徳・徳島線系統に転用され、遅ればせながらこれらの線区の急行列車のパワーアップとささやかな設備改善が行われた。
 また、同改正では予讃線・海回り区間の一部を除いて四国内全線の自動閉塞化が達成されたため、全車両についてタブレットキャッチャーと前位側ドアの窓保護用鉄板の撤去が行われ、これに少し遅れる形で列車無線装置が搭載された。

 国鉄分割民営化に際しては39両がJRに継承されたが、1990年に予讃・土讃線から定期急行列車が消滅し、1993年に予讃線・高松〜伊予市間の電化が完成するなど、急行列車削減と電化の進展、さらに新型車両の導入により余剰車が発生し、1995年までの間に合わせて25両がJR九州やJR西日本に売却された。

 既述の通り四国以外の各地では各種改造が施行された車両が多いが、JR四国在籍車両については全車両が塗色変更と座席の交換以外は原形を保っていた。

 なお、1995年度に当時残存していた全車に列車無線装置が装備され、屋根上にアンテナが搭載されている。


 このほか、小生は撮影していないが1993年の春頃から約1年間、当時徳島運転所所属の30号車に前面に赤い塗装を入れた警戒色が試験的に施された。


(国鉄時代の急行列車運用の画像は「急行列車」の項を参照)

土讃本線 讃岐財田駅
1979年11月

 大変判りにくいが、キハ65形の「重連」を先頭に讃岐財田を通過する、急行「土佐3号」。
 トイレの無いキハ65形の重連は珍しかった。

「土佐6号」(左)/「土佐5号」(右)
1982年8月
土讃本線 讃岐財田駅

 こうしてキハ58と並べるとよく判るが、実はキハ65形は通常の平窓のキハ58形よりも屋根高さが6cm低くなっている。

土讃本線 讃岐財田駅
1984年2月

 キハ65形先頭の土讃本線普通列車(238D)。

 国鉄時代は普通列車運用に入ることは少なかったが、エアサスで座席間隔が広く、必ず冷房が付いているキハ65形は特に夏期は人気があった。

土讃本線 讃岐財田駅
1986年5月

 国鉄時代は珍しかった、キハ65+キハ58の2両編成ローカル。
 なお、当時この列車は所定ではキハ47とキハ58の組み合わせであったことから、何らかの事情による代走運用であったと思われる。

予讃本線 高松駅
1986年9月

 キハ181−1と連結して多度津工場を出場して「試運転」されてきたキハ65−24。

予讃本線 高松駅
1986年9月

 1985年3月改正で急行「土佐」の格下げで登場した快速243D。
 1986年3月改正からはキハ58形が減車されて3両編成となり、キハ65形が先頭を飾るようになった。

予讃線 丸亀〜讃岐塩屋間
1988年8月8日

 こんな画像しかないが、当時試された試験塗装の一つ。

 一見するとJR四国標準色のようだが、細帯がスカイブルーでなく通常のブルーであることから、試験塗装車であると判別できる。
 なお、上り方のキハ58形も試験塗装車である。

予讃線 讃岐塩屋〜多度津間
1993年1月2日

 キハ47形との2連で予讃線を行く、土讃線・阿波池田行ローカル。

 当時の前面方向幕は行先表示ではなく列車種別表示のみだったが、ローカル運用の場合は白幕のまま走ることが多かった。

土讃線 塩入〜黒川間
1998年1月3日

 「普通」幕を表示して走行するのは珍しかった。

土讃線 讃岐財田駅
1999年8月16日

 1998年の秋〜冬にかけて方向幕の交換が行われ、以降は基本的に行先を表示するようになった。同時に、側面のサボを使用しなくなっている。

予讃線 多度津駅
2002年4月21日

 晩年の花形運用とも言うべき阿波池田発高松行快速(区間快速)「サンポート」

多度津工場
2003年10月19日

 多度津工場内で撮影した、珍しいエンジンを下ろした状態の26号車。
 単なる点検のためで、同車は後日通常運用に復帰している。

土讃線 黒川〜讃岐財田間
2005年4月17日

 晩年のキハ58形との4両編成。
 多度津から快速「サンポート」となる。

土讃線 琴平〜塩入間
2005年5月4日

 晩年に登場した復活急行色のキハ65−34。

予讃線 高松駅
2007年12月22日

 2000系と並ぶと車体の大きさが際立つ。
 ちなみに屋根までの高さで比較すると、2000系よりも235mm高い。

 なお、上画像では実はキハ65側の方が線路の位置も100mm高くなっているので、尚更その差が際立って見える。

土讃線 讃岐財田〜坪尻間
2008年10月18日

高徳線 オレンジタウン〜造田間
2008年10月18日

 退役を前にして運転された、リバイバル急行列車。
 四国内各地をこれまでに充当された各急行列車のヘッドマークを掲げて運行された。



土讃本線 阿波池田駅
1985年10月16日

 オリジナルのキハ65−44の客室。

 当初から扇風機は設置されておらず、広いシートピッチとユニットサッシとも相まって、キハ58系より1クラス上の雰囲気を醸し出していた。

牟岐線 牟岐駅
1987年4月8日

 なお、最後部のボックスシートの内の壁側は、若干幅が狭くなっていただけでなく、窓側の肘掛けと手すりも省略されていた。

予讃線 高松駅
2005年6月25日

 バケットシートに交換された、晩年のキハ65−26の客室。

予讃線 高松駅
2000年2月2日

 キハ65−34の晩年の客室。

土讃本線 阿波池田駅
1985年10月16日

 車内のナンバー表記はシールであった。


予讃線 内子駅
2008年4月26日

 キハ65−69の運転台。
 人間工学が取り入れられ、キハ58系などの在来車種から多くの改良点がある。

予讃線 内子駅
2008年4月26日

 キハ65−69の運転助士席側。
 正面に丸いハンドブレーキのハンドルが見える。

 床自体は低いが、着席時はハンドブレーキ前のステップを手前に下ろして使用する。

予讃線 内子駅
2008年4月26日

 ギラリと光る車輪ディスクブレーキが、本形式の特徴でもあった。

 台車は後年ペデスタル式に改造された車両もあるが、JR四国在籍車は全車が最後まで未改造でオリジナルの美しいスタイルを保っていた。




〜〜〜〜 2008年4月1日当時の状況 〜〜〜〜 

 現在四国では、松山運転所に34/41/69号車の3両を残すのみとなっている。
 そのうちの34号車が旧国鉄急行色に戻されて活躍中であるが、当然ながら国鉄色のキハ65形は全国でも現在この1両だけである。


 キハ65系としての残存数は、2008年4月1日現在で全国でも14両となっており、既に寒地向け500番台の原型車は姿を消した。
 四国から数両が売却された九州でも、残すところ1両のみとなり、原型を残すキハ65形は既に四国以外では全滅した。

 現在の定期運用は、予讃線・松山〜八幡浜間の1往復のみとなっている。
 但し、松山配置のキハ185系3100番台車に予備車が無いため、その代走として運用に入る場合がある。


<キハ65形(最終期の)運用表>(2008年3月15日改正当時)

 原則としてキハ58形とペアで運用され、通常は1日1往復のみの運用となっていた。

 627D → 632D

 627Dは伊予大洲までキハ32を併結
 632Dは八幡浜からキハ54に増結


〜〜〜〜 2008年10月15日 〜〜〜〜 

 定期運用終了。

 10月16日以降の 627D は、65+58 の部分が 47x2 に車種変更となっている。





タブレットキャッチャーと保護板
キハ65−38

予讃本線 多度津駅
1985年3月13日
キハ65−50

予讃本線 多度津駅
1982年11月
キハ65−32(?)

予讃本線 高松駅
1986年8月1日

 キハ58系とは処理の異なる、キハ65形のタブレットキャッチャーとその保護板。

 公式側は乗務員室窓の直下にキャッチャーがあり、その位置関係から出入口ドアの前位側の部分にだけガラス破損防止の鉄板が取り付けられていた。
 非公式側は乗務員室ドアの前に車体から大きく張り出す形でキャッチャーが取り付けられ、客室ドアとの間のスペースに保護用の鉄板が設置されていた。

 四国においては1986年11月1日ダイヤ改正をもって優等列車運転区間からはタブレット閉塞は姿を消したため、同改正以後にキャッチャー及び保護板の撤去が進み、JRへ移行する頃には全て撤去完了していた模様である。




前面ジャンパ栓納め

 1963年からキハ58系の冷房改造が始まり、その流れの中で勾配線区における冷房編成の性能改善を目的として、本形式が新たに開発・製造された。
 従って、本形式は新製当初から冷房電源用の発電ユニットを搭載して、他車へその電源を供給・制御するためのジャンパ栓も備えていた。

 ところが、当初は冷房電源供給用ジャンパ栓を納める位置が低かった(正面右下タイホンの横)ことから、特に曲線走行時に支障が出たため、もう少し高い位置(正面右標識灯の横)に変更する改修工事が行われた。
 それまでに冷房改造されていたキハ58系のほか、本形式も一部が改修対象となり、各地の工場で施工された。


 ところが、どういう事情かこの改修工事が存置または放置された車両がごく一部に散見され、当方所蔵画像でも少なくともトップナンバーのキハ65形1号車が、1985年3月時点でも低い位置のままであることが確認できる。

 同様な事象はキハ58系でも見受けられる。


 「鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション」にハ65形の新車情報記事が載っており、そこに掲載された落成直後のキハ65−1の画像を見ると、冷房電源ジャンパ栓納めはタイホーンの隣に設置されており、晩年のこの姿も一応「改修済み」であったと思われる。
 



 なお当形式に関しては、冷房電源供給用ジャンパ栓納めは、第2次車からは最初から標識灯横の高い位置に取付位置が変更されている。
 それに伴い、正面右裾部タイホン下にあるジャンパ栓納めの位置も変更となり、間隔が広くなっている。

 1969年度2次債務で製造された第3次車以降(14号車および508号車以降)がこのパターンとなっており、それ以前の車両と容易に区別することが出来る。

 当形式は製造年次による外観の差異が少ない車両であるが、少なくともここを見れば最初期の車両とそれ以外とを見分けることが出来る。


高徳線 徳島駅
1987年4月8日

 急行「よしの川」のキハ65−76。
 冷房電源用ジャンパ栓納めは、当初から後部標識灯と同じ高さとなる。

予讃本線 多度津駅
1985年3月13日

 急行「うわじま」先頭のキハ65−1。
 冷房電源用ジャンパ栓納めの位置が若干低いのが判る。
 また、その下のジャンパ栓納めの間隔も、←左の50号車よりも狭い。

土讃本線 讃岐財田駅
1985年3月14日

 急行「あしずり」先頭のキハ65−8。
 冷房電源ジャンパ栓納めは改修済みだが、よく見ると改修前の古い位置に撤去痕が残っている



排気管延長車

 四国配置のキハ65形の中で、ごく少数ながら前位側排気管が延長改造された車両が存在する。
 当方手持ち画像においては、1999年2月に初めてその存在が確認され、少なくとも26号車と27号車の2両が該当する。

通常排気管の41号車

予讃線 八十場駅
2005年1月2日
延長されている26号車

予讃線 丸亀〜讃岐塩屋間
2005年9月18日
同じく27号車

讃岐塩屋〜多度津間
2005年5月2日
国鉄時代の26号車

予讃本線 多度津駅
1986年3月24日
同じく27号車

土讃本線 讃岐財田駅
1985年3月
両車が繋がっているとその差がよく判る

土讃線 塩入〜黒川間
2005年9月4日
延長車両の排気管の様子

予讃線 松山駅
2006年10月22日



 施工理由は不明であるが、施工車と未施工車と比較した場合、第1位側(前位側正面向かって左側)の前照灯付近の煤汚れの違いが際立っており、これは前照灯の煤煙汚れ対策のためではないかと思われる。


 従って、以下は小生の想像であるが・・・

 国鉄時代から1990年頃までは、四国ではキハ65形は編成中間に入ることが多く、前照灯付近は左右とも同じぐらい汚れていたが、1990年頃(特に1986年11月改正)以降は編成先頭(および最後尾)になる機会が増え、それは1990年の予讃・土讃線急行列車運用全廃以降、さらに顕著となった。
 その頃から、左右前照灯の煤汚れの違いが目立つようになってきたことから、試験的に2両について延長施工してみたところ効果が確認されたものの、既にアスベスト問題などで同形式の置き換えが視野に入っていたことから、他車への波及が無く2両のみの施工で終わってしまった。

 ということであろうか?

未施工の2号車

予讃線 讃岐塩屋〜多度津間
1993年1月2日
施工済みの27号車

土讃線 讃岐財田駅
1999年8月16日
復活国鉄色の34号車は未施工

土讃線 琴平〜塩入間
2005年5月4日


 施工車と非施工車の汚れ具合の比較。
 違いは明瞭である。




ウィンドウォッシャノズル

 1969年から1972年まで製造されたキハ65形は、製造年次による外観の変化がほとんど無くまとまったスタイルをしており、見た目で製造年代を特定するのが難しい。

 上記の前面ジャンパ栓納めの他には、本項のウィンドウウォッシャノズルの2点のみが、これまでに判明している外観上の識別点である。

 0番台車は1970年度1次債務で製造された第5次車である64号車から、500番台車は1970年度2次債務で製造された第6次車の514号車から、取り付けられている。


 このノズルについては非常に判りがたく、遠目には判別が難しいが、正面向かって運転席側窓の左上隅と、運転助手席側窓の右下隅のあたりに1つづつ設置されている。


高徳線 徳島駅
1987年4月8日

 キハ65−76の例。

予讃線 高松駅
2003年10月5日

 キハ65−69の例。

予讃線 高松駅
2007年12月22日

 比較用に、ウォッシャノズルの無いキハ65−27の例。





形式車体(国鉄色)(JR四国色)

24号車


28号車


69号車
 2枚折戸にユニットサッシ、分散クーラーと、同時期に登場した12系客車と類似した外観。
屋根上
 屋根上デザインも12系と似ており、ベンチレータの無いすっきりした機器配置となっている。
 先頭部右側の乗務員ドアと客室ドアの間に駆動エンジンの排気管、後部左側車端に発電用エンジンの排気管があり、当然ながら太さも異なる。
寸法21,300 mm
2,903 mm
4,085 mm
重量42.9 t
車体普通鋼
機関形式
出力
DML30HSE
500PS/1,600rpm
変速機 DW4F
(変速1段・直結1段手動変速)
最終減速比2.994
ブレーキ方式 機関ブレーキ付
DARE1
ブレーキ装置車輪ディスク
台車形式 DT39
TR218
許容最高速度95km/h
車体構造・客室2扉クロスシート
乗車定員84

※さらに詳細はスペック一覧表参照

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