キハ181形 型録



粟井で離合する、キハ181系特急
「いしづち4号」(左:キハ181−1)/「いしづち3号」(右:キハ181−3)
92年9月15日

この日は「3号」の到着が若干遅れたため、「4号」は場内信号手前で最徐行
「3号」が到着後、「4号」は黒煙を吹き上げて爆音と共に猛ダッシュ! で粟井を通過
・・・・いやぁ、マジでしびれました(^^; カッコ良かったぁ〜♪



四国に在籍していたキハ181形18両全車両の画像掲載
型式−車番の後の( )内は、落成年月日と製造メーカー

<四国のキハ181形の特色>


 四国配置のキハ181形に共通に見られた特色について、以下に挙げる。
 なおJRになってカラーリングが変わったというのは誰にでも判る点なので、ここでは考慮外とする。


〜ホーンの蓋〜
 正面の標識灯横のホーンが、当初は蓋式だったのだが、JR化後は100番台車を除いて多くがスリット式に変更されている。

 但し一部の車両については、既に国鉄時代にも特に夏期を中心にスリット式を装備していたこともあったほか、逆にJR化後も蓋式を装備していた車両も存在した。
 少なくとも、33/37/38/41/42/43号車が92年まで蓋付きのままで残っていた。

 なお100番台車については、何故か105号車が廃車数ヶ月前に突然スリット式に交換されたが、それ以外は登場時から最後まで蓋式のままであった。


〜台車〜
 台車については3つの形態があり、踏面ブレーキのDT36/TR205を履くのは1968年製造の最初期車(1〜3)のみ。
 それ以降の車両ではディスクブレーキ装備で台枠と軸箱の形状も変更されたDT40/TR219となるのが本来の姿。

 後年、台車枠に亀裂が入る事象が発生したことから、国鉄時代からペデスタル式台車枠への交換改造が行われ、本州在籍車については国鉄時代にほぼ完了したが、四国配置のキハ181形には全廃直前までオリジナルのままで残存した車両も見受けられる(34/37/39号車等)。

 ちなみに100番台車は登場当初から全車ペデスタル式であった。


〜タブレットキャッチャー等〜
 国鉄時代はタブレット閉塞区間が残っていたことから、タブレットキャッチャーと乗務員室ドアの後部の補強板が付いていたが、四国内では1986年をもって特急運転線区からタブレット閉塞区間が消滅したため、これ以降に順次撤去されていった。

 四国では、1986年11月改正をもって、予讃線 伊予上灘〜伊予白滝間を除いた全線のCTC化(含む簡易タイプ)が完了している。
 このため、同改正で登場した100番台車については、当初からタブレットキャッチャーが省略されており、0番台車についても同改正以降に順次撤去されていった。
 なお、JR四国全線のCTC化(同上)完了は、1991年11月である。


〜アンチローリングダンパ〜
 連結面車体妻面には、本来は車体の動揺を防ぐアンチローリングダンパが装着されているのだが、JR化以後は全て撤去された。

 これは高松運転所でのダンパ連結作業中に、作業員が転落して負傷する事故があったためで、地域間移動の可能性が無くなった民営化以後に順次撤去されたもので、国鉄末期あたりから既に使用を停止していた。


〜渡り板の形式番号表記〜
 四国のキハ181形は全車が渡り板に形式番号を表記しており、国鉄色時代は赤文字表示で目立つため、車両番号の確認に便利であった。

 1987年から1988年にかけての四国カラーへの塗り替え当初は、正面貫通路の渡り板に記載されている形式表記が、国鉄色時代と同じ赤文字だったが、90〜91年にかけて全てライトブルーに変更されている。


〜通風スリット撤去〜
 上記の渡り板の型式番号表記が変更されたのとほぼ同じ時期に、機械室部分車体側面および後位側出入口脇裾部の通風スリットが撤去された車両が目立つのも、四国のキハ181形の特色である。

 ただしコレについても、最後までスリット付きのままで残った可能性のある車両も少数見受けられる。

 撤去された理由については不明であるが、水の侵入による車体の腐食が原因ではないかと想像。


〜リクライニングシート化〜
 内装面では、1987年3月から同年末までの間にかけて、当時在籍していた16両全車両が、順次それまでの回転クロスシートからリクライニングシートに交換されている。

 1988年4月改正用として登場した104/105の2両は、当初からリクライニングシートを装備している。

 なおこのリクライニングシートは、当初はキハ185系の物とほぼ同じデザイン・カラーリング(ベージュ系)で微妙に異なるものであったが、1992年頃に赤系の異なるモケットの物に再交換された車両が一部に存在する。


〜連結器の不思議〜
 キハ181形の画像を見ていて不思議に思うのは、何故正面の連結器(密着自動&電気連結器)が真っ直ぐ正面を向いている車両がほとんどいないのだろうかということである。

 少なくとも私が四国で撮影したキハ181形の画像で、連結器が真正面を向いている画像は、両手で数えるほどである・・・・なぜ?w


〜運転室窓上部の雨樋〜
 細かい点だが、四国のキハ181形は側面雨樋の先端部分が改造されているが、その形状が、初期形と後期形、それに100番台車とではそれぞれ異なる。

 ↑この画像では、0番台車と100番台車の「JNR」マークの位置の違いや、1号車と39号車の縦樋へ落とし込む部分の集水器の大きさの違いも判る。

 この雨樋は四国独自の改造であり、標準仕様は前面窓の上まで来ないで、乗務員室ドアの部分で終わっており、100番台車やJR西日本所属車の雨樋が本来の標準仕様。



 なお、現在鉄道・リニア館で保存されている1号車は、撤去されたアンチローリングダンパと通風スリット、延長された雨樋など、四国時代の姿をとどめている。


キハ181−1(1968年8月1日/富士重工)

 キハ181系のトップグループ。当初は名古屋機関区に配置されて、中央本線特急「しなの」としてデビューした。
 1973年の「しなの」一部電車化に伴い、翌1974年度に高松運転所に転属して、以後1993年3月末に廃車となるまでを四国で過ごした。

 下中央の画像では、正面貫通路部分の愛称名表示器が通常と異なるように見えるが、これは金属枠プレートを外してあるためで、装置内部の蛍光灯まで見えているのが判る。

 四国のキハ181形の中ではトップを切って、1987年3月28日にリクライニングシート化されている。

 現在は、愛知県のリニア鉄道館で保存されている。
 雨樋も四国独自改造の状態で保存展示されており、四国時代を偲ぶことが出来る。

 当方手持ちの画像から通風スリットが撤去されたのは91年と思われ、リニア鉄道館で保存されている同車にも通風スリットが存在しない。


(86年9月)
予讃線 高松駅

(86年11月1日)
予讃線 丸亀駅
左画像の2ヶ月後だが、
既に結構汚れている

(93年2月)
宇野線 早島駅
キハ181−2(1968年8月13日/富士重工)

 1968年10月改正で登場したキハ181系のトップグループ14両のうち、キハ181形は4両。
 当初はやはり名古屋配置で、キハ181−1と共に「しなの」の一部電車化に伴って四国へ渡ってきた。廃車時期も同じだが、こちらは保存されることもなく解体されてしまった。

 この車両、89年当時赤文字だった渡り板の形式表記は、91年にはライトブルーに変更されている。
 また、91年7月24日時点で残っていた通風スリットが、同年10月5日には消えているのが判る。

 1987年11月13日にリクライニングシート化。

(85年10月)
予讃線 丸亀駅

(89年5月4日)
土讃線 讃岐財田駅

(91年7月24日)
予讃線 多度津駅

(91年10月5日)
予讃線 本山〜観音寺間
キハ181−3(1968年7月31日/新潟鐵工)

 新潟鐵工で落成したこの3号車は、実は富士重工製の1号車よりも早く落成しており、事実上はこの3号車がトップナンバーとも言える。
 キハ181系トップグループとして名古屋に配置。やはり1974年度に四国へ渡ってきた。

 この車両も通風用スリットに変化が見られ、1985年の時点は間違いなく存在が確認できる車体右側裾部のスリットが、92年の1月3日時点まで残っていたのが、同年9月には無くなっているのがお判り頂けるだろうか?
 四国のキハ181形は、JR化後にでも通風関係の改造工事を受けたのであろうか?

 1988年1月16日にリクライニングシートになった。

(83年6月)
土讃線 琴平駅

(92年1月3日)
予讃線 坂出〜宇多津間

(92年9月15日)
予讃線 浅海駅
キハ181−6(1969年11月28日/新潟鐵工)

 1970年の特急「つばさ」キハ181系化のために登場した、第2次グループ。
 試作的要素のあったトップグループに対して、こちらは当初から東北本線での120km/h運転を前提に設計され、基礎ブレーキ装置がディスクブレーキに変更されて台車枠の構造も変更されたほか、液体変速機が自動同期つめクラッチから湿式多板クラッチに変更となっている。

 また、長大編成に対応するために発電機の定格出力が180kVAにパワーアップされているなど、多くの改良が施されている。
 なお、トップグループの4両についても、後年に180kVAタイプに換装されている。

 下記の33/34号車と共に、「つばさ」電車化に伴い1975年度に四国へ転属。

 この6号車は、上の3号車より1年早く1991年1月から9月までの間に通風スリットの撤去改造を受けている。

 リクライニングシート化は1987年12月20日。

(83年6月)
予讃線 高松駅

(91年1月)
山陽本線 岡山駅

(91年9月)
予讃線 坂出〜宇多津間
キハ181−33(1971年7月5日/新潟鐵工)

 1971年に落成した、事実上のキハ181系最終グループ。当初は尾久区の配置で「つばさ」に使用された。
 1975年度に高松へ転属した。

 下の画像では、かなり判りにくいが84年の画像ではDT40タイプを、85年の画像ではDT36タイプの台車枠を履いているのが判る。

 リクライニングシートへ交換は、1987年12月5日に完了。

(84年1月29日)
土讃線 讃岐財田駅

(86年4月)
予讃線 高松駅

(92年1月3日)
予讃線 多度津駅
キハ181−34(1971年6月29日/富士重工)

 33号車と同グループで、同じく尾久区へ新製配置の後、1975年度に高松へ転属。

 1987年11月26日にリクライニングシートとなった。

(85年10月)
土讃線 阿波池田駅

(91年8月)
山陽本線 岡山駅

(92年11月)
予讃線 大西駅
キハ181−36(1971年12月20日/新潟鐵工)

 1972年3月改正用として1971年度末に登場した、本当の意味でのキハ181系最終グループ。
 この36号車から43号車までは、新製当初から高松運転所の配置で、その生涯を四国で過ごした。

 このグループになると、トップグループと比べると見えない部分を中心に細かい改良が数多く盛り込まれているが、実は新製当初からEB装置とTE装置、それに通票車上受けが取り付けられているのは、この最終グループのみである。

 1987年4月8日にリクライニング化。

(84年5月)
土讃線 讃岐財田駅

(91年12月)
予讃線 詫間〜みの間

キハ181−37(1971年12月20日/新潟鐵工)

 1987年12月12日にリクライニングシート化されている。

 四国内の優等列車走行区間全線がCTC化されたのは1986年11月である。そのため、86年11月の時点ではまだタブレットキャッチャーが残っているのが判る。

(84年5月)
土讃線 讃岐財田駅

(86年11月1日)
予讃線 丸亀駅

(92年1月3日)
予讃線 讃岐塩屋〜多度津間
キハ181−38(1972年1月12日/新潟鐵工)

 1987年4月13日にリクライニング化。

 四国に在籍していたキハ181形は基本的に通年スノープラウ装備であったが、この38号車はその中で唯一、廃車まで一貫して通年スノープラウ無しで通していた謎車両であった。


(83年6月)
予讃線 高松駅

(91年9月)
予讃線 鬼無〜端岡間

(92年11月)
予讃線 粟井駅
キハ181−39(1972年1月12日/新潟鐵工)

 1987年4月17日にリクライニング化完了。

(83年6月)
予讃線 高松駅

(91年7月24日)
予讃線 多度津駅

キハ181−40(1972年2月4日/新潟鐵工)

 1987年11月7日にリクライニングシート化された。
 やはり、渡り板の文字は89年は赤、90年はライトブルー。

 1989年になると、1986年当時はまだ無かった列車無線アンテナが搭載されて、代わりにタブレットキャッチャーとその後方の補強板が撤去されているのが、画像からもはっきりと判る。

 なお、この車両は数少ない「最後まで通風スリットが残っていた可能性のある」車両。


(85年3月13日)
予讃線 多度津駅

(90年1月)
本四備讃線 児島駅

(91年2月)
山陽本線 岡山駅
キハ181−41(1972年2月4日/新潟鐵工)

 リクライニング化は1987年11月19日。

(84年1月29日)
予讃線 多度津駅

(92年1月3日)
予讃線 多度津駅

キハ181−42(1972年2月15日/新潟鐵工)

 1987年4月10日にリクライニングとなった。

 この車両も、早い時期に通風スリットが撤去されている。


(86年5月5日)
土讃線 薊野〜高知間

(90年12月31日)
予讃線 国分駅

(91年8月)
予讃線 高松駅
キハ181−43(1972年2月15日/新潟鐵工)

 1987年4月23日にリクライニング化改造完了。

 この車両もスリット撤去が比較的早く、91年9月には既に無くなっている。

(85年3月14日)
土讃線 讃岐財田駅

(91年9月)
予讃線 国分〜讃岐府中間

(92年1月3日)
予讃線 讃岐塩屋〜多度津間
キハ181−102(1986年9月26日/鷹取工場)

 1986年11月改正での特急増発に伴う先頭車化改造車。

 種車はキハ180−69(1972年2月4日/新潟鐵工製)で、キハ180形としての新製配置区は高松運転所。

 1986年までキハ180形として活躍後、一旦向日町運転所に転属して、鷹取工場で先頭車化改造工事を受けたのち、高松運転所に戻された。

 前面の標識灯ケース上の「フック」の位置が、通常のキハ181形よりも「ヒゲ」1本分高い位置にあり、これが識別のポイントであった。

 また、細かい点だが、機械室の長さが0番台車よりも30cmほど短いため、車体左側面に3つあるアオリ戸のうちの一番客室側のものは、0番台車よりも幅が狭くなっているほか、右側面のアオリ戸と乗務員室ドア&客室窓との間隔が0番台車より少し狭く、この関係で「JNR」マークがアオリ戸と干渉するのを避けるため若干上に配置されているのがポイントである。
 このほか、運転台部分の雨樋や燃料タンクの形状も0番台車と異なるほか、ライトケースの「出っ張り具合」が0番台車よりも若干小さいなど、随所に差異が見て取れる。

 さらにこの100番台車(102〜)は、タブレットキャッチャーと補強板が最初から装備されていない。

 リクライニングシート化されたのは、当時四国在籍のキハ181形の中ではもっとも遅い、1988年3月2日。

 87年当時未搭載の列車無線アンテナが88年には搭載されているほか、88年までは残っていた車体右側面スリットが91年には無くなっているなど、細かい変化が見て取れる。


 なお四国の100番台車はトイレは業務用室に変更され、また洗面所は撤去されていた。
 また、102/103号車は洗面所跡に一時期100円硬貨専用公衆電話が設置されていたことがあった。

(87年4月9日)
予讃線 松山駅

(88年8月8日)
予讃線 讃岐塩屋〜多度津間

(91年9月)
予讃線 丸亀駅
キハ181−103(1986年9月10日/鷹取工場)

 キハ181−102と同時期に改造された。

 元キハ180−70(1972年2月4日/新潟鐵工製)で、これも当初は高松配置となった。
 その後の運命もキハ180−69と同じであるが、キハ181形としての落成日はこの103号車の方が102号車より半月ほども早い。

 識別ポイントは102号車と同じで、やはりフックの位置が高く、87年当時の画像を見ればそれは一目瞭然である。
 登場当初は存在していた車体右側面裾部のスリットは、91年の時点では無くなっている。

 また、渡り板の文字はやはり89年の時点では赤、91年にはライトブルーとなっている。

 キハ181化改造から1年あまりの1987年11月25日に、リクライニングシート化された。

(87年4月9日)
予讃線 宇和島駅

(89年5月4日)
土讃線 讃岐財田駅

(91年7月29日)
予讃線 高松駅
キハ181−104(1988年3月30日/多度津工場)

 瀬戸大橋開業に伴う1988年4月ダイヤ改正に合わせて先頭車化改造されたグループ。

 改造種車はキハ180−68(1972年1月12日/新潟鐵工製)で、102/103号車の種車となったキハ180−69&70と同グループとなり、やはり高松運転所に新製配置された。

 102/103号車との相違点としては、前面フックの位置が通常の位置に戻ったほか、後位側の方向幕およびトイレ/洗面所部分の明かり取り窓について、102/103号車は種車のキハ180形の方向幕の方をそのまま残してトイレ窓を埋めているのに対して、104/105号車は元のトイレ窓の位置に方向幕を移動している点が異なる。但し、この100番台車の方向幕は、実際には使われなかったようだ。

 また、104/105号車は車体裾部のスリットが当初から省かれている。

 登場当初からリクライニングシートを装備。

(88年8月8日)
予讃線 讃岐塩屋〜多度津間

(92年1月1日)
予讃線 鬼無〜端岡間

(93年1月3日)
予讃線 讃岐塩屋〜多度津間
キハ181−105(1988年3月14日/多度津工場)

 キハ181−104と同時期に改造。

 元キハ180−73(1972年2月15日/新潟鐵工製)で、キハ180形としての新製配置はやはり高松運転所。

 外観/仕様は104号車と同一で、同じく多度津工場にて落成。

 なお意外と知られていないが、キハ181形全54両のうち、この104/105号車の2両のみが、国鉄色の時代が存在しないばかりでなく、キハ181系の普通車型式の中で、登場当初からリクライニングシートを装備していたのもこの2両だけという、超希少なグループである(^^;

(88年8月8日)
予讃線 国分〜讃岐府中間

(91年9月)
予讃線 丸亀駅

(92年1月3日)
予讃線 讃岐塩屋〜多度津間




参考文献
電気車研究会 「鉄道ピクトリアル」1993年12月号
ほか

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